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篳篥嫌いの原因は・・・

  • 執筆者の写真: gagakuasia
    gagakuasia
  • 2012年3月3日
  • 読了時間: 2分

ある時、篳篥嫌いで有名だった明尊僧正(三井寺の僧で能書家で有名な小野道風の孫)が参加する月見の宴が琵琶湖でありました。 和邇部用枝は参加者の一人だったのですが、明尊僧正に乗船を禁じられてしまいます。 ところが彼は「それでは打ち物をさせていただきます」と言い、なんとか乗船できることになりました。 宴もたけなわとなった頃、用枝はひそかに篳篥を取り出して湖水に浸すのですが、これを同乗の者に見られてしまいます。

同乗の者

「まさか篳篥を吹くつもりか」

用枝

「いえいえ、手を洗うだけです」

しかし、しばらくするとついに篳篥を取り出し、「音取」を吹き出してしまったのです。

「だからいわんこっちゃない。こういう奴を乗せたすっかり興も醒めてしまったではないか」

ところが。。。 しだいに用枝の篳篥の音色の素晴らしさに、人々が涙し始めます。 演奏が終わるころには例の僧正が、他の人々以上に感じ入り涙を流しながら 「仏教の教えには、篳篥は迦陵頻の声を学ぶというけれども、これまでこの言葉を信じていなかった。そのことが本当に残念でならない。今さら思い知るとは。今夜の宴の褒美は他でもない、用枝一人にのみ授けよう」 と語ったということです。またその後もことあるごとにこの時の話をしたとか。。。。。。 私はこのエピソードに見える用枝のキャラクターも好きなので、たくさんの管絃譚の中でも印象深い話の一つです。 原文ではこの僧正は篳篥のことを「にくみ給う」と書かれています。つまり「気に入らなかった」わけです。 仏典に「迦陵頻の声」とまで比喩され、取り上げられていることを知りながらも、それを信じられずに、篳篥を嫌い続けてきたのはどうしてか。 想像するに、きっと「僧正の周りには『すぐれた篳篥吹き』がいなかったのではないか」ということです。 (少なくとも、用枝より劣った技量の奏者にしか出会ってこなかったのは確実ではないでしょうか) 口と息加減で音程をコントロールしながら、尚且、艶やかな音色を使って、ダイナミックかつ繊細に自由自在にメロディを紡ぎだしていく。 それが篳篥の魅力ですが、しかしそれには相当の技量が必要ですよね。 有名な『枕草子』での篳篥に対する評価も、「クツワムシのようにうるさくて、近くでは聞きたくない」でした。 きっとこの点については古今を問わず同じだったでしょう。

 

(参考)

 古今著聞集 巻六 管絃歌舞「志賀僧正明尊本よりひちりきにくむ人なりける」

 前賢故実 巻第六 「和邇部用枝」より画像引用

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