悲恋の楽曲!?
- gagakuasia
- 2014年8月20日
- 読了時間: 3分
なげきこし みちの露にもまさりけり なれにし里をこふる涙は
-嘆きながら来た道の露にも勝っている 慣れた故郷を恋しく思って流す涙は-
<王昭君を詠める 赤染衛門 -後拾遺和歌集・雑三>
紀元前1世紀頃のこと。
匈奴の呼韓乎単于は前漢の元帝に「漢民族の女性を妻にしたい」と漢の女性を所望し、匈奴へ送られたのが王昭君でした。
“大唐(漢の誤記か)に王昭君という絶世の美女がいました。ある時、胡国(匈奴)の王が服属し宝物を献上してきたので、漢の王はそのお返しに何を望むかと尋ねたところ、後宮の女性を一人いただいて自分の妻としたいと答えたので、望みを聞き入れました。ところが後宮には三千人の女性がいるので、皇帝が一人ひとりを見てどの女性を送るのか判断できませんでした。そこで絵師を呼び、女性たちの顔を描くように命じられました。ところが女性たちはみな絵師に宝を渡して美しく描いてもらったのですが、王昭君は、自分は美しいからその必要はないと賄賂を渡しませんでした。すると王昭君一人が醜く描かれてしまったために、匈奴へ送られてしまいました。”
<教訓抄六 王昭君>

“単于が漢の女性との結婚を望んだので、元帝は王昭君を単于に与えた。単于は大変喜んだ”
<漢書 匈奴伝>
後漢(20-220年)に編纂された『漢書』では、このように非常にシンプルな記述にとどまるのですが、
『後漢書』では「後宮にいた王昭君が数年経っても皇帝にあうことができず悲しみと怨みを抱いて、自ら匈奴へ行くことを志願した」という話となっています。
更に時代が下ると、先程の『教訓抄』のように賄賂を受け取る絵師の存在や、王昭君と音楽という要素を盛り込んだ王昭君物語が作り上げられていきました。
“王昭君は馬上でうつ伏せになって泣いて悲しんでいる時に曲を作った。そしてこの曲を演奏すると少し悲しみが紛れたという。その後、彼女の名前をこの曲の名前としたという。”
<教訓抄六 王昭君>
“王昭君は匈奴へ遣わされる時、馬上で琵琶を弾き、この曲を演奏した。そして名前を以て曲名とした。”
<楽家録三一 王昭君>
雅楽には「王昭君」という楽曲が伝承されていますが、おそらくこの曲の成立もこうして王昭君物語が形作られて行く過程でのものと考えられます。
“この楽、日本では絶えてしまったのを、南宮(貞保親王)がこのように素晴らしく立派な曲が絶えてしまったのは心苦しいと、尺八の譜から探し出して伝えたという。”
<竜鳴抄上 王昭君>
王昭君のお墓は現在の内モンゴルのフフホトにあるといいます。 二千年後の今も日本で奏でられるこの曲の音色は、彼女に届いているでしょうか・・・。
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