徽子女王の左手
- gagakuasia
- 2015年9月4日
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今をさかのぼること千年ほど前、 醍醐天皇の孫に徽子(きし/よしこ)という女王がいました。 重明親王という管絃に優れた父を持ち、親王同様に楽の道に優れていたといいます。
斎宮として伊勢に下った後に村上天皇の後宮に入内したため、斎宮女御とも呼ばれました。 また村上天皇の崩御後、娘の規子が斎宮に卜定された際は、前例を破り伊勢へ同行したことから、『源氏物語』の六条御息所もモデルの一人とも言われています。
彼女は琴の演奏に巧みであったといわれ、なかでも七絃琴の名手であったそうです。 村上天皇とも琴を通じて心を通わせたエピソードが残っています。 楽書のひとつである『夜鶴庭訓抄』(やかくていくんしょう)には、そんな彼女が琴を弾くために、 日常生活では利き手の右手ではなく、左手を使うようになったという記述が見られます。

「つめのかけぬやう あぶらけをよすと申せど 筝(琴)のためにあしければ しほゆにて時々あらふべし (中略) 右(手)をもつかはせ給べけれども 内々にては 左を好みてつかはせ給ひけるが 右の御手が物にさはりもぞするとて・・・」 ( )は筆者追記。 と、琴を弾くための爪が欠けないように彼女がとっていた対策が書かれています。 琴を弾く方の右手の爪が割れてしまうといけないので、爪に油をつけたけれども、それでは楽器によくないため、「しほゆ」(=塩湯でしょうか)で時々洗う・・・
しかし結局、プライベートな場面では左手を使った。なぜなら、右手に何かあっては大変だから。 そして左手を使うことが癖になったとも書かれています。 この記述からも、彼女が父親王から受けた琴の演奏にそそぐ並々ならぬ気持ちが想像できます。
[この記事は2015年9月4日「雅楽あれこれ」blog記事を再編集したものです]
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